最高裁判所第三小法廷 平成4年(オ)874号 判決 1996年6月18日
上告人
篠崎治
右訴訟代理人弁護士
藤原忠
森川憲二
多田徹
被上告人
株式会社近畿銀行
右代表者代表取締役
楠正臣
右訴訟代理人弁護士
松永二夫
主文
原判決中、上告人敗訴の部分を破棄する。
前項の部分につき、本件を大阪高等裁判所に差し戻す。
理由
上告代理人藤原忠、同森川憲二の上告理由第一の一について
一 原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
1 上告人は、昭和五九年八月二一日、有限会社ケイビックとの間で、期間を一五年間、賃料を月額一六二万円、敷金を四五〇〇万円と定めて、上告人が本件建物(スタジオ)をケイビックに賃貸する旨の本件賃貸借契約を締結した。なお、後に、賃料は月額一五五万円に、敷金は三〇〇〇万円に変更された。
2 本件賃貸借契約については、右同日付けの建物賃貸借契約書(以下「旧契約書」という。)が作成された。
3 さらに、上告人は、同月三〇日、ケイビックとの間で、賃貸借期間中に賃借人であるケイビックの都合により本件賃貸借契約を解除する場合には、賃貸借開始の日からの期間に応じて、(1) 五年以内の解除の場合は一〇〇パーセント、(2) 八年以内の解除の場合は八〇パーセント、(3) 一〇年以内の解除の場合は四〇パーセント、(4) 一五年以内の解除の場合は二〇パーセントというように、一定の割合による金額を敷金から控除し、その残額をケイビックに返還することを約した(以下「本件特約」という。)。
4 上告人とケイビックは、右同日、改めて本件特約を記載した建物賃貸借契約書(以下「新契約書」という。)を同月二一日付けで作成した。
5 ところで、被上告人は、同年九月七日、ケイビックに対して二〇〇〇万円を貸し付け、あわせて、ケイビックとの間で、本件賃貸借契約に基づくケイビックの上告人に対する敷金返還請求権を目的として質権設定契約を締結した。
6 ケイビックの代表者藤原美代子の夫である藤原肇(以下「藤原」という。)は、上告人に対し、さきに被上告人から交付を受けていた質権設定承諾書の用紙を提示し、これに署名押印して質権設定を承諾するよう求めていたが、上告人は、右同日、「昭和五九年八月二一日附賃貸借契約書の各条項により敷金より控除した残額について質権設定を異議なく承諾いたします」との条項を付加した上、右承諾書に署名押印し、藤原はこれを被上告人に交付した。
7 ところが、上告人としては、右承諾書と共に本件特約の記載されている新契約書が被上告人に交付されると思っていたのに、藤原は、本件特約の記載されていない旧契約書を被上告人に交付した。
8 本件賃貸借契約で定められた敷金三〇〇〇万円は、同年一二月までに、全額がケイビックから上告人に差し入れられた。
9 本件賃貸借契約は、昭和六一年四月下旬に当事者間の黙示の合意解約によって終了し、ケイビックは、昭和六二年四月末日、上告人に対し本件建物を明け渡した。
二 本件訴訟は、右のとおり、貸金債権を担保するためにケイビックの上告人に対する敷金返還請求権に対して質権の設定を受けた被上告人が、質権に基づく取立権(民法三六七条)により、上告人に対して右敷金返還請求権のうち自己の債権額に相当する部分の支払を請求し、これに対して、上告人が敷金の控除に関する本件特約の存在等を主張して争うものである。
原審は、前記一の事実関係の下において、次のとおり判示して、上告人は本件特約をもって被上告人に対抗し得ないとした上、本件建物の賃料相当損害金のみを敷金から控除し、被上告人の請求の一部を認容した。
1 上告人が質権設定を承諾した際、藤原を介して、承諾書と共に本件特約の記載されていない旧契約書が被上告人に交付されたから、右の承諾は異議をとどめない承諾であったと認められる。
2 上告人が質権設定を承諾したのは、本件特約を質権者である被上告人に対して主張し得ると思っていたからであり、本件特約をもって被上告人に対抗することができない以上、上告人には錯誤があったことになるが、その錯誤は承諾の意思表示をするに至った動機における錯誤であって、承諾の意思表示自体の錯誤ではない。
3 動機の錯誤は、その動機が表示されて相手方が認識しているときに限って要素の錯誤として法律行為を無効とするが、本件の場合には、右の動機は何ら表示されていないから、要素の錯誤があったと認めることはできない。
4 したがって、上告人は、ケイビックに対して主張し得る本件特約をもって、質権者である被上告人に対抗することはできない。
三 しかしながら、上告人の質権設定についての承諾に関する錯誤が、動機の錯誤にすぎず、要素の錯誤に当たらないとした原審の右判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。
質権設定についての第三債務者の承諾は、債権者のために債務者の第三債務者に対する債権を目的として質権が設定された事実についての認識を表明する行為であって、いわゆる観念の通知の性質を有するものであり、これについても意思表示の錯誤に関する民法の規定が類推適用されると解される。原審の確定した事実関係によれば、上告人は、敷金返還請求権に対する質権設定を承諾するに当たり、本件特約について異議をとどめて承諾をするつもりであったが、その承諾書を持参した藤原が本件特約の記載されていない旧契約書を被上告人に交付したため、異議をとどめない承諾がされる結果となったものである。すなわち、右の承諾については、上告人の認識と被上告人に対する表示との間に質権の目的である敷金返還請求権に本件特約が付されていたか否かの点に関して不一致があったものであり、上告人に錯誤があったものである。
ところで、本件特約は、前記一3のとおり、賃借人であるケイビックの都合により五年以内に本件賃貸借契約を解除する場合であれば一〇〇パーセント、八年以内にこれを解除する場合であれば八〇パーセントというように、敷金から控除される金額の割合を定めるものであって、返還の対象となる敷金の額と密接なかかわりを有する約定である。そうすると、右の錯誤は、質権の目的である債権の重要な属性に関する錯誤であるから、承諾をするに至った動機における錯誤ではなく、承諾の内容自体に関する錯誤であるとみるのが相当である。
そして、本件特約の付されていない敷金返還請求権を目的として質権を設定するというのであれば、社会通念に照らして、上告人が質権設定を承諾しなかったことが、容易に推察されるから、右の錯誤は民法九五条にいう要素の錯誤に当たるものというべきである。
四 以上と異なる原審の判断には民法九五条の解釈適用を誤った違法があり、右違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり、上告人のその余の論旨について判断するまでもなく、原判決中、上告人敗訴の部分は破棄を免れない。そして、本件については、その余の点について更に審理を尽くさせる必要があるから、これを原審に差し戻すこととする。
よって、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官尾崎行信 裁判官園部逸夫 裁判官可部恒雄 裁判官大野正男 裁判官千種秀夫)
上告代理人藤原忠、同森川憲二の上告理由
第一 要素の錯誤の成否に関する原判決の判断と法令違背
一 要素の錯誤の成否に関する原判決の判断と民法第九五条の解釈適用の誤りについて
1 原判決は、「被告が本件質権の設定について承諾するにいたったのは、敷金の返還について本件特約が結ばれており」、この特約を「質権者である原告に対抗することができない点において被告に錯誤があったといわざるを得ない」旨指摘しつつ、「その錯誤は要するに承諾の意思表示をするにいたった動機における錯誤であって承諾の意思表示自体の錯誤でない」とし、且「被告の右動機がなんら表示されていなかったことが明らかであるから、結局、右承諾に要素の錯誤があったものと認めることはできず」として、上告人の本件質権設定承諾の意思表示に要素の錯誤があったとする主張及びこの主張を正当とした一審判決の判断を退けた。
2 ところで、本件について、一審判決及びこれを引用する原判決の理由中で認定された事実によれば、上告人と訴外(有)ケービック(以下単に(有)ケービックという)間において、昭和五九年八月二一日、別紙物件目録記載の建物(以下本件建物という)の賃貸借契約を締結し、建物賃貸借契約書(甲第二号証の三)を作成したが、その後同年八月三〇日ころ、一五年と定めた賃貸借期間内に、賃借人である(有)ケービックの都合で契約が解除された場合、その返還すべき敷金の敷引き割合を、期間毎に段階づける特約(乙第五号証末尾に記載の期間内解除による敷金の返還の特記以下本件特約という)を記載した建物賃貸借契約書(乙第五号証)を、この日付を同年八月二一日に遡らせて作成したこと、(有)ケービックが被上告人から融資を受けるにつき、店舗入居敷金担保差入書及び質権設定承諾依頼書の用紙に、債務者((有)ケービック)と賃貸者間の昭和五九年八月二一日附賃貸借契約書の各条項により、敷金より控除した残額について質権設定を承諾する旨の条項を付加した上、署名押印して、訴外藤原肇(以下藤原という)に渡し、藤原及び大和ハウスの社員は、右店舗入居敷金担保差入書及び質権設定承諾依頼書(甲第二号証の一、以下単に質権設定承諾依頼書という)と、本件特約の付記されていない建物賃貸借契約書(甲第二号証の三)を、被上告人に交付したこと等の事実認定がされている。
つまり、上告人にとっては、質権設定承諾依頼書(甲第二号証の一)と共に被上告人に交付されるべき「昭和五九年八月二一日付賃貸借契約書」は、甲第二号証の三ではなく、乙第五号証に他ならなかったものであり、甲第二号証の一と乙第五号証を一緒に藤原に手渡したところ、同人が甲第二号証の一と甲第二号証の三を、あたかも上告人の一体の意思表示であるかの如く被上告人に伝達交付してしまったものである。これは意思表示の表示機関又は使者による誤達に他ならないものである。大審院昭和八年五月四日判決(同年(オ)第三一七〇号、民集一三巻八号六三三頁参照)は、「乙が、甲の依頼に応じ、債権者某に対する甲の債務につき、保証する意思をもって借用人氏名欄を空白にした借用証書に保証人として署名押印した上、これを甲に交付した場合において、甲がほしいままに乙の氏名を債務者として記入し、これを債権者に差し入れた時は、乙の意思表示には要素の錯誤があり、しかもその錯誤は、必ずしも重大な過失に基づくものということができない」旨判示した。使者の誤達また表示機関の錯誤の例として指摘されるものであるが、右事件において、大審院は表意者の意思表示には要素の錯誤があったものと判断し、これと異なる判断をした当該事件の原判決を破棄したものである。
他方動機の錯誤は、意思表示の表示そのものに表示上の錯誤があり、あるいは内容の錯誤(対象、目的の同一性の錯誤も含まれる)があるのとは異なり、表示するにいたった内心の動機に錯誤がある場合であるところ、本件は、単なる表意者の内心の動機の錯誤にとまるものでなく、質権設定承諾の意思表示の対象となる賃貸借契約書について、甲第二号証の三の書面と乙第五号証の書面が入れかわっているというものであり、本来、質権設定承諾依頼書に表示された「昭和五九年八月二一日付賃貸借契約書」の同一性、つまり意思表示の対象、客体に係わる錯誤が存する場合である。要は、本件特約の存否が、質権設定承諾の対象たる賃貸借契約書の要素をなしているといえるか否かの点において、要素の錯誤に該当するか否かが判断されるべきものであったのである。この点一審の判断はまさに正当であったというべきである。とりわけ本件は、敷金返還請求権という将来一定条件下で初めて発生する債権について、質権設定をしようとするものであり、質権設定の要物性を満たすため、少なくとも債権証書等の交付を要するところ、とりわけ、表示機関又は使者が債権証書を入れかえ、あるいは本来交付すべきものと異なる証書を交付するということは、表意者にとって重要な事項に他ならないのである。
3 本件の上告人の意思表示の瑕疵が、単に動機の問題でなく、承諾の意思表示の対象の同一性に係わるものであることは、甲第二号証の一と同号証の三とが、別々に分離された状態、つまり両書面を上告人が契印を押捺して外形上一体として被上告人に交付したものではないという事情からも重要である。逆に言えば、被上告人にとっては、藤原によって差し入れられた右二通の書類に対し、契印がないにもかかわらず一体性に留意することなく、又上告人に何ら確認することもなく、ただ証人杉浦は確定日付を付することを被上告人の社員である貸付課長に指示したにとまる(同人の平成元年二月七日付尋問調書一五丁裏)という状況下で、質権設定契約が締結されたのである。甲第二号証の一と同号証の三には、被上告人側で付された公証人の確定日付印のみの契印があって、上告人の契印がないことに留意されるべきである。
4 以上の次第であり、原判決は、前提として本件質権設定承諾依頼書と対象たる賃貸借契約書の被上告人への交付が誤達された事実を把えながらも、これを表示機関の錯誤又は使者の誤達として、表意者の真意と表示の不一致が法律行為の要素に係わるか否かを判断し、且要素の錯誤に該当するものと判断すべきであったところ、これを単なる動機の錯誤にすぎないと判断し、加えてこの動機が表示されていなかったとして、民法第九五条の適用を排斥したが、この判断は、前記大審院昭和八年五月四日判決にも反し、同条の解釈並びに適用を誤った違法があり、且この判断が一審において全面勝訴した上告人の主張を覆えしたものであって、判決の結論に影響を及ぼすことも明らかである(民訴法第三九四条)。
二 要素の錯誤の成否と弁論主義・民訴法第一八六条の違背について
1 原判決は、前記のとおり、上告人の本件質権設定に関する承諾の意思表示について、敷金の返還に関する本件特約が結ばれていることを質権者に対抗できると誤信したのは、承諾の意思表示自体の錯誤ではなく動機の錯誤にすぎないものとし、且この動機はなんら表示されていなかったと判示した。
ところで、上告人の、本件質権設定承諾の意思表示には要素の錯誤があり無効とする主張に対し、被上告人の主張は、「錯誤の事実はなく、仮にあったとしても被告(上告人)に重大な過失がある(原告の一審における第六準備書面、二)」あるいは、「被告(上告人)において錯誤があったとは思われず、仮にあったとしても重大な過失がある(一審における原告の第七準備書面、二)」「錯誤による意思表示は、相手方が表意者に錯誤のあることを知り、または知り得べき場合にだけ、その効果に影響を及ぼす(控訴人準備書面第一)」等にすぎない。他に時期に遅れた攻撃防禦方法とする主張は、一審の第二〇回口頭弁論期日において撤回されている。
他面、上告人の質権設定承諾依頼書と同時に差入れられた本件賃貸借契約書は、本件特約の追加前のもの(甲第二号証の三)が誤って差し入れられたもので、被告の質権設定承諾の意思表示に要素の錯誤があるとすること、且表意者たる上告人に右承諾の表意時に重大な過失がなかったとすることは、上告人の一貫した主張でもある。
意思表示の錯誤に係わる本件の両当事者の主張は右のとおりである。本件特約が記載された賃貸借契約書(乙第五号証)を対象として、本件質権設定の承諾をした上告人の真意と、結果として、対象である賃貸借契約書が、甲第二号証の三と入れかわり、これによって伝達された表示との不一致という点において、「その錯誤は承諾の意思表示をするに至った動機の錯誤である」とする主張は、被上告人から一、二審を通じ全く主張されたことがない。もとより上告人も、動機の錯誤云々を指摘反論したこともない。被上告人が一言も主張しない右主要事実を、上告人が予め反論すべき必要もなかったと思料するものである。本件特約が付された賃貸借契約書を対象と認識して、上告人が本件質権設定の承諾をしたという点について、動機の錯誤であったとする主張は、本件両当事者のいずれもが主張していないものである。これは一件記録を見れば明白である。
2 ところで、弁論主義に違反するとされた判決の例として、民法九四条二項の第三者の善意について、「この保護を受けようとする者は、自己が善意であったことを主張し立証しなければならない。然るに原判決は、被上告人が善意の主張をしていないのにかかわらず、その善意を認定して上告人の請求を排斥したが、これは主張されていない事実につき判断をした違法がある。のみならず論旨摘録の証拠によれば、被控訴人が善意であったものとはいまだにわかに断定し得ないものがあるのであって、原判決はまた、重要な証拠に対する判断を逸脱したものである」として原判決を破棄した判決(最高裁判所昭和三五年二月二日第三小法廷判決、昭和三二年(オ)第三三五号、民集一四巻一号三六頁参照)及び、「被上告人は、原審において、丙が被上告人から乙炭鉱の経営を引きつぎ、かかる債務引受をしたとの抗弁事実については、全く主張していないから、原判決には当事者の主張しない事実を認定して、これにもとづいて判断した違法があり、右違法は原判決の結論に影響を及ぼすことも明らか」として原判決を破棄した判決(最高裁判所昭和四〇年一二月一七日第二小法廷判決、昭和四〇年(オ)第一五八号、裁集民八一号六〇三頁参照)等が十分に対比されるべきである。
上告人の主張する錯誤が「単に動機の錯誤にすぎないか否か」及び仮に動機の錯誤だとして「それが表示されたか否か」の点については、被上告人は主張しておらず、原判決は、当事者によって主張されていない事実につき判断をしたもので、この点において右二例の最判にも反し、弁論主義を定めた民事訴訟法第一八六条に反する違法があるというべきである。
又右の点は、第一審の正当な判断を原判決が全面的に覆し、上告人の一審全面勝訴の結論に対し決定的に逆の判断をもたらしている点であり、判決の結論に影響を及ぼしていることも明らかである(民事訴訟法第三九四条)。
三 要素の錯誤の成否と審理不尽、釈明権不行使の違法
1 原判決は、上告人の主張する錯誤は単に動機の錯誤にすぎないものとし、且それが被上告人に表示されていないとして、右上告人の主張をしりぞけ、一審判決の決定的に重要な部分を変更したが、右原判決の判断は、民法第九五条の解釈適用の誤り、弁論主義違反という各法令違反に加えて、原審における審理経過から見ても、その審理は極めて不公平、不十分なものであったといわざるを得ない。
2 裁判所が民事訴訟事件を審理するに当たっては、弁論主義のもとで、当事者の提出した資料に基づき、必要にして十分な審理を尽くすべきことは、訴訟手続の根本原則であって審理が不十分であると認められれば、この根本原則に違反した法令違反があるというべきことはいうまでもない。原審の審理を見れば、四回の口頭弁論が開かれ、両当事者から、一審の口頭弁論結果の他は控訴状、答弁書、控訴人の平成三年五月一六日付及び同年九月三日付各準備書面、被控訴人の平成三年七月一八日及び同年一〇月一五日付準備書面がそれぞれ陳述され、当事者双方から申立てられた人証申請も全く不要として、極めて「簡易」に結審した。被上告人(控訴人)の控訴理由は、既に原審で反論した通り、その主要部分が明らかな誤解にもとづく主張であった。そのような審理経過を経てなされた原判決が、一審判決の決定的な部分を覆し、基本的に重要な変更をもたらす判決であったが、その結論を左右する岐路は、被上告人が主張すらしていない、上告人の本件質権設定承諾の意思表示における錯誤は、単に動機の錯誤にすぎず且この動機は表示されていない旨の判断である。
当然のことながら、上告人は原審において、被上告人が主張していない右の点まで反論をする必要もなく且その機会もなかったものである。このような両当事者の主張立証状況を前に、裁判所が公正な判断を下そうとするならば、少なくとも、上告人の主張する「要素の錯誤」に対し、被上告人が動機の錯誤とし且これが表示されていない旨の主張をするのか否か、これに対し上告人が反論反証の意思はないのか等の点について、釈明権を行使すべきであったというべきである。不意打ちというの他ないものである。右の点において、公平な釈明権の行使があれば、上告人は当然これに応じたものであり、重要な手続違反としての釈明権不行使の違法があり、これが判決の結論に影響を及ぼすことも明らかである。
3 又、原判決が、甲第二号証の一と甲第二号証の三の両書面の様式の関係について、どのように把握されたかも疑問の残るところである。右両書面は、藤原によって被上告人に差し入れられた後に、被上告人側で公証人による確定日付をとり、両書面に契印が押捺された。然るに、もともと両書面は、別個の独立の書面の体裁をもったまま藤原によって伝達されたものであって、本来の対象である乙第五号証が、甲第二号証の三に差しかえられて交付されたものである。上告人の本件質権設定承諾依頼書(甲第二号証の一)へ押印された印鑑による甲第二号証の三との契印がされていない。仮にも右契印がなされたものとして、つまり外形上の表示から見ても両書面が一体のものである場合において、にもかかわらず、上告人が本件特約の存在を主張し、この特約の拘束を受けるべき敷金返還請求権について質権設定承諾の対象とする真意であったと主張するのであれば、それは動機の錯誤とされ、表示の有無如何によって当事者の公平を図る余地も理解できるものである。然し、甲第二号証の一と同号証の三とは外形上、様式上は一体性をもったものではなかったのである。この点原審においては、甲第二号証の一と同号証の三について原本確認がされていないので原判決がこの点をいかに把握されているか疑問の残るところではあるが、それはさておき、動機の錯誤であるか否か、動機が表示されたか否かが争点となれば、上告人が行なうべき攻撃防禦は多々あったものである。
4 ところで、一、二審を通じ、とりわけ一審において、本件は相当の審理がなされている。しかしながら、当事者双方の主張、立証の内容からすれば、原判決の決定的な判断となった「動機の錯誤にすぎず且これが表示されていない」旨の点に関しては、当事者双方の攻撃防禦はなかったものである。十分な審理がつくされたといえるか否かは、判決結果に重大な影響を有する争点について、現実にどのような攻撃防禦がなされたか、又その機会はあったかという見地で判断されるべきである。単に審理期間の長短、証拠方法の量でつくされるものではない。にもかかわらず、原審の審理は、右の点において審理が欠落しあるいは決定的に不十分であって、原判決には審理不尽の違法があり、これが判決の結論に影響を及ぼすことも明らかである。
第二 敷金返還請求権の発生及びその額に関する原判決の判断について
一 序
「家屋賃貸借における敷金は、賃貸借終了後家屋明渡義務履行までに生ずる賃料相当額の損害金債権その他賃貸借契約により、賃貸人が賃借人に対して取得するいっさいの債権を担保するものであり、敷金返還請求権は、賃貸借終了後家屋明渡完了の時において、それまでに生じた右被担保債権を控除しなお残額がある場合に、その残額につき具体的に発生するものと解すべきである」(最高裁判所昭和四八年二月二日判決、民集二七巻一号八〇頁参照)
ところで、原判決は、「本件賃貸借契約が終了し、(有)ケービックが本件建物を明け渡した昭和六二年四月末日、本件敷金の返還請求権が具体的な権利として発生し」たものと認定している(原判決中理由の二の4)。更に前記のとおり、上告人の質権設定承諾の意思表示に要素の錯誤があるとして無効とする主張を排斥した結果、右最判を引用しつつ、敷金から控除されるべき被担保債権の項目とその控除額について、上告人の主張に対しそれぞれ判断しているが、原判決の判断には以下のとおりの違法がある。
二 本件建物改築工事費用に関する原判決の判断について
1 本件建物改築工事費に関する原判決の判断と民法四一六条一項の解釈適用の誤り
(一) 原判決は、本項目について、まず上告人の主張が本件建物改築工事あるいは全面改築工事に伴なう損害である旨の主張をするのに対し、単に、「本件賃貸借契約終了後の本件建物の改装工事費用」とし、「右契約に基づく賃借人の原状回復義務の中に破損箇所の修理と設置した造作その他の設備の撤去義務の他、さらにこれを第三者に賃貸し易いように改装する工事を施行すべき義務まで含まれていたものとは到底認めることができない」とし、本件建物改築工事で不可避であった、少なくとも二、五〇〇万円を下らない上告人の多大の損害を、一顧だにしないという結論を導いた。
右は、本件建物賃貸借契約の目的、基本的な前提事情等を何ら考慮せず、本件において借主である(有)ケービックのいかなる行為が債務不履行と評されるべきであるかの判断を誤っているものである。
(二) 本件建物賃貸借契約は、その目的として、賃貸借契約書(甲第二号証の三又は乙第五号証のいずれによっても)の第二条により、(有)ケービックは、本件物件を(有)ケービックの貸スタジオ、貸事務所及び喫茶等これに付随する業務目的にのみ使用すべきことを定め、同契約書第三条により、賃貸借期間を一五ケ年という、建物賃貸借契約において期間を定める契約としては、極めて特殊な長期の賃貸借期間を定めている。又、原判決の判断の前提に、上告人の質権設定の承諾の意思表示に要素の錯誤があるとする無効の主張は認められないとしていることから、本件質権の対象となる敷金返還請求権の権利の帰趨は、甲第二号証の三の賃貸借契約書(本件特約の定めのない)の定めにもとづくものとすべきことは自明の理である。
(三) ところで、乙第五号証の賃貸借契約書には、「期間内解除による敷金返還の特記」事項を定めているが、これは甲(貸主)及び乙(借主)が都合により賃貸借期間内に本契約を解除することを許容することとして、その場合の敷金返還割合、返還方法についての特約を定めたものである。然しながら、上告人と被上告人間において、本件敷金返還請求権の存否を画する賃貸借契約書は、甲第二号証の三に他ならないとすべきであるとする原判決の判断を前提とすれば、本件賃貸借契約において、借主である(有)ケービックが「解約権を留保」していないものとして、その権利義務関係が画されなければならない。従って、(有)ケービックにおいては、上告人に債務不履行たる事由がある場合の解除は別論として、期間内に無理由解除はできず、自己都合による解除や賃貸借期間中の利用放棄、一方的終了等があれば、それ自体が(有)ケービックの債務不履行に他ならないものとなる(被告第七準備書面第一の一の2の末尾から四行目以下)。
(四) 最高裁判所昭和四八年一〇月一二日第二小法廷判決(昭和四七年(オ)第三六七号、裁集民一一〇号二七三頁)は、賃貸借契約の保証金返還請求に関する事件において「賃貸借契約における期間の定めは、当事者が解約権を留保しない限り、賃貸人、賃借人双方の利益のためにされるのであり、期間の定めのある賃貸借契約において、解約権留保のない当事者一方による解約の申入れは無効と解すべきであり、原審が賃借人に解約権が留保された事実を確定することなく、期間の定めがある賃貸借期間内にされた賃借人の解約申入により、当該賃貸借契約が終了したものと判断したのは違法である。」として、当該事件の原判決を破棄した。右判旨を、本件にあてはめれば、契約上定められた一五年間の賃貸借期間は、貸主である上告人の利益のためでもあることが明らかであり、期間途中の解約権が(有)ケービックに留保されていないとする以上、(有)ケービックの本件契約期間内の、賃借人としての利用継続の放棄又は一方的終了等は、借主としての債務不履行になることが明らかである。
(五) そもそも本件建物は、(有)ケービックの特殊なスタジオ用途の特殊建物として、その設計指図にもとづいて、上告人が新築し、(有)ケービックの用途に供したものであって、多額の建築費用の出費を要した為、(有)ケービックによる相当長期の継続利用を不可欠のものとして、一五年間という建物賃貸借契約としては極めて長期の期間を当初から定めたものであった。とりわけ、①スタジオであるため外部からの採光をしないことを基本に排煙窓の他は窓を設けないという点、②撮影のためカメラの視野を広くとらなければならず天井高を極端に高くしたという点、③スタジオ内装はもともと建物本体の外壁面であるALC板の素地が露出し、鉄骨も耐火被覆を施したままの状態であったという点、④スタジオの壁面下部は、撮影時の遠近感を緩和するため湾曲させたホリゾンという特別の壁面構造を要したという点、⑤トイレ等設備の絶対量の不足、空調、照明設備等の特殊仕様等々に特徴があった。神戸市内では唯一、関西でも有数の大規模なスタジオ用特殊建物であったのである。従って、(有)ケービックが利用を放棄し、終了させれば、他に代替テナントの確保の可能性が見込まれず、むしろこの可能性は皆無といえるものであって、現に通常の事務所用建物に大改築をして、ようやく新テナントの確保ができたのである。又この大改築によって上告人にもたらされた現実の損害は、いかに控え目に見ても二、五〇〇万円を下らないことも上告人の主張してきたとおりである。
(六) 既に指摘のとおり、本件建物賃貸借契約においては、一五年間の賃貸借期間終了以前に、賃貸人である上告人に何ら帰責事由がないにもかかわらず、倒産という借主である(有)ケービックの一方的な都合により利用継続が不可となったが、これは(有)ケービックの本件賃貸借契約上の利用継続義務、賃料支払義務の債務不履行に他ならないというべきである。従って本件改築工事費用が、上告人にとっての損害となったことも明らかであるのであるから、右(有)ケービックの債務不履行と右損害との間に相当因果関係があるか否かが判断されるべきであって、且本件の全審理を通じて見れば、本件特殊建物の代替テナント確保の見込みはなく、通常の事務所棟等の建物に大改築を不可避としたものとして、民法第四一六条一項による損害賠償義務が、(有)ケービックに発生したと判断されるべきであった。上告人は、従前の審理を通じ、本件改築工事費用を(有)ケービックの債務不履行による損害であるとし、且第一次的には通常損害と主張してきたが、これはもとより右民法第四一六条一項の適用されるべきことを求めていることも明らかである。
(七) 然るに原判決は、右建物改築工事費に関し、これを原状回復義務に限定してその適否を判断したが、このように限定した判断自体が誤りである。本件賃貸借契約書第一四条に定める原状回復義務は、借主((有)ケービック)が設置した造作等の収去義務を定め且借主の希望により設置した貸主の所有物件についても、貸主の希望がある時は借主の費用で撤去すべきことを定めているのである。この条項は、民法第四一六条の債務不履行全般の適用を何ら排除するものでなく、右契約条項にもとづき、本契約の終了があった場合、つまりいずれかの当事者が相手方の債務不履行を理由に解除可とされる場合、及び貸主の一二条による解除の場合において造作等(その他の設備も造作に準じあるいは類するものと解すべきである)の収去について定めているにすぎないのである。
このように上告人が主張する本件建物改築工事費の損害控除は、契約期間終了前に(有)ケービックの都合により本件建物の利用継続が不可とされた場合、本件賃貸借契約に前提的に存在する一五年間の利用継続義務に係る(有)ケーピックの債務不履行の損害賠償責任を問うものであり、単なる原状回復義務とは次元が異なり、その義務の範囲も全く異なるものである。
(八) 以上の次第であり、原判決は、本件改築工事費の損害について民法第四一六条一項の通常損害にあたるものとして、且、全審理によってこの損害が二、五〇〇万円を下らないことが明らかであり、又少なくとも原判決が、上告人に支払義務を認めた一、一九一万円はいかように見ても下らないのであるから、この損害を、敷金から控除すべきであった。にもかかわらず、単に原状回復義務の該当性のみを把え且これを否定して敷金からの控除を排斥したが、この判断は前記解約権の留保のない賃借人の一方的解約申し入れに関する最判の趣旨に反し、民法第四一六条一項の解釈並びに適用を誤った違法があり、これが判決の結論に影響を及ぼすことも明らかである(民事訴訟法第三九四条)。
2 本件建物改築工事費に関する原判決の判断と民法第四一六条二項の解釈適用の誤り
(一) 特別な事情が存在し、それからいわゆる「相当因果関係」のある範囲の損害が特別な事情による損害とされ、その場合、債務者にその特別の事情の予見又は予見可能性を要件とすることによって損害賠償義務が課される(民法第四一六条二項)。
上告人は本件賃貸借契約に関し、契約に定められた賃借期間内に、(有)ケービックが自己の都合で本件建物利用継続を不可としたことから、もともと代替テナントの互換性に欠ける本件建物について、そのままでは結局代替テナントが確保されず、通常の事務所用建物に大規模な改築を余儀なくされ、この工事費額の損害を被った。
右損害が、仮に(有)ケービックの債務不履行による通常の損害でなかったとしても、「代替テナント確保不能による大改築の不可避性」は少なくとも特別事情として、(有)ケービックはその債務不履行当時(なお契約時にたっても本件では明らかに予見可能性があるが)右特別事情を予見し、又は予見し得べきであったのであるから、民法第四一六条二項による損害賠償義務を負担すべきである。
(二) 本件建物は、(有)ケービックの特殊スタジオ用途に充てるべく、同社が設計、見積りの段階から指図し、この建築を実施したものであった。もともと倉庫であった上告人所有の旧建物は、(有)ケービックのスタジオ用途に必要な各種大規模な照明機材等の設置には耐えられず、新たに(有)ケービックの用途にあわせて本件建物を新築し、上告人は多額の建築費を投下したものであった。仮に、通常は賃借建物を改築することによる損害までは借主の債務不履行の損害賠償義務に含まれないとされる場合であっても、特別な事情のある場合において発生した損害、あるいは特別に派生した損害については、債務不履行の結果生じた損害を、債務者の「予見又は予見可能性」を要件として、債務者に負担させるのが公平の見地にそうものである。
(三) 本件の建物改築工事費用は、本件建物が、①スタジオ用として外部からの採光をむしろ遮えぎる必要があって、排煙窓の他に窓を設けなかったため、多数の窓の開口を要し、②撮影の視野を広げるために極端に高くした天井高を大幅に下げ、各階天井と床の間に二重の天井を設ける必要があり、③特殊壁面構造であるホリゾンを撤去し又ALC板の素地がムキ出しとなっていた内壁面に内壁材の張り付けを要し、④トイレその他の設備の不可避な増設を要し、⑤空調、配電設備等々の大幅なとりかえを要し、⑥第二スタジオ内に新たに柱、鉄骨、梁等を設け、⑦加えてこれら工事の為、鉄骨材を搬入するトラックを建物内に入れる必要から、各室間仕切りの撤去を要する等々の大規模な工事を要した。(有)ケービックの利用が不可となった場合、代替テナントとして、もともと(有)ケービックと同様の大規模スタジオを使用してスタジオ営業を行なう事業者は見込まれず、現に(有)ケービックの利用継続が不可となって以後、代わってスタジオ営業をなし得るテナントもなく、本件建物は、そのままでは実用的な利用価値のないものとなり、右の大規模な改築工事が不可避であったのである。(有)ケービックは、これらの事情を、すでに本件賃貸借契約時においてはもとより、本件建物の利用継続が不可となった時点つまり債務不履行時においても、明らかに予見しておりあるいは予見可能性があったのである。
従って、本件において少なくとも、本件改築工事費用は、民法第四一六条二項の特別事情による損害として、上告人において本件敷金から当然控除をなし得る「賃貸借契約により賃貸人が賃借人に対して取得する債権」に該当すると判断されるべきであった。にもかかわらず、原判決は右の上告人の主張を一顧だにせず、結果としてはこの適用を排したのであって、同条項の解釈並びに適用を誤った違法があるというべきであり、又これが判決の結論に影響を及ぼすことも明らかである(民事訴訟法第三九四条)。
3 債務不履行に基づく損害賠償義務の成否に関する原判決の判断と理由不備の違法
(一) 上告人は、債務不履行に基づく損害賠償請求権の成否に関し、本件建物改築工事費用が、前記のとおり第一次的には、民法第四一六条一項に定められた通常生ずべき損害にあたるとし、第二次的には同条二項の特別事情による損害にあたり、且(有)ケービックにはこの損害発生の予見又は予見可能性があった旨主張した。とりわけ右の点については、一審で弁論再開後の口頭弁論期日において特に強調した点でもあった(被告第九準備書面の二、被告第一〇準備書面三等参照)。
然るに原判決は、前記のとおり、本件建物改築工事費用の敷金からの控除に関する右上告人の主張に対し、まず項目を「改装工事費用」と表現をかえ、且(本件賃貸借)契約に基づく賃借人の原状回復義務の中に改装工事費用は含まれないとして、本件建物改築工事費用を全項目について、敷金から控除すべき損害にあたらないとした。
(二) 右の点に関して顕著なことは、原判決が、本件建物改築(改装にしろ)工事費が、本件の契約締結事情下において、借主たる(有)ケービックの債務不履行に基づく損害といえるか否かについて何ら判断をしていないという点である。債務不履行の損害にあたるか否かを判断することなく、従って何故にこれにあたらないのかの判断を一言も理由中に示すことなく、従ってそれが通常損害にあたるものか特別損害にあたるものかの点についても、何ら理由の一言の指摘もなく、単に原状回復義務の範囲如何の点でのみ把えているのである。
(三) ところで「債務不履行に基づく損害賠償において、賠償すべき損害は、不履行により通常生ずべき損害であるか、特別事情による損害であれば、当事者がこれを予見し又は予見し得べかりしものに限るというのが普通の法理であるから、賠償すべき損害が、その不履行により通常生ずべきものであるか、又は特別事情による損害であっても当事者が予見しもしくは予見することを得べかりしものであったかを判示しなかった原判決には理由不備の違法がある。」とされるのである(大審院明治三三年四月一〇日第一民事部判決、明治三二年(オ)第一五五号、民録六輯四巻一二頁参照)。
(四) 本件の如く、債務不履行の損害賠償請求権の成立を、通常損害又は予備的に特別事情による損害としてその主張が明確になされているにもかかわらず、かかる主要事実の主張に対し、少なくとも最小限の判断理由が示されて然るべきであるが、この判断理由が何ら示されていないのである。原判決のいう「原状回復義務」は、必ずしも債務不履行のある場合に限らず、賃貸借契約の終了した場合の借主の義務の一態様にすぎない。本件においては、これと全く別異に、特殊用途の特殊建物を新築したこと、本件契約の一五年間の契約期間を定めたこと、借主に解約権の留保がないこと、契約期間途中(有)ケービックが自己の責により賃借の継続を不可としたこと、不可避的に上告人に本件建物を通常の利用に供し得る為(単に第三者が賃貸し易いようにという程度のものではなく、改築しなければ代替テナントの利用確保が実用的に不可能であったのである)の大規模な改築を要したということ等々の事情から、民法第四一六条一項又は二項の該当性を判断すべきであったものであり、これが民法四一六条一、二項のいずれにも該当しないのか否か、その理由を原判決は判示すべきであったが、一言の指摘もない。この点において、原判決は、重要な争点について何ら理由を示さず、これを欠落させているのであり前記大審院明治三三年四月一〇日判決にも反し、理由不備の違法がある(民事訴訟法第三九五条一項六号)。
(五) なお、原判決には一審判決の理由に付加した部分に、「本件賃貸借契約が、昭和六一年四月下旬には当事者間の黙示の合意解約によって終了し」と認定した部分がある。この黙示の合意解約が、判決理由を見る限り、判決結果に対し、どのような意味、役割を果しているのか(単なる賃貸借の終了を意味するのかあるいはそれ以上の意味を有するのか)必ずしも判然としない。本件の場合倒産して一方的に本件建物の利用継続を不可とした(有)ケービックに対し、多大の損害を被った上告人が、何ら清算事項を留保しない意味での黙示の合意解約をする等あろうはずのないことである。この点、当事者意思は容易に推測される点である。右判断は、本件審理にあらわれた証拠の合理的採否を求める採証法則に反しあるいは経験則に反する認定でもあり、全体の判旨とも整合性を有しないことから、理由齟齬、理由不備の違法も有しているものである。右念の為指摘する次第である。
4 原状回復義務の範囲とこの適用に関する原判決の判断と法令違背及び審理不尽、釈明権不行使の違法
(一) 原判決が、本件建物改築工事費用を、前記のとおり単に「原状回復義務」の範囲に含まれるか否かという点のみで把握したのは、民法第四一六条一、二項の解釈適用を誤っているということに加え、仮に原状回復義務のレベルで本件損害項目を検討しても、原判決の判断のように、本件建物改築工事費全てを、賃借人の義務に含まれず、この費用額を一切損害として控除すべきでないとするのは、本件建物賃貸借契約条項第一四条の前提にある民法第六一六条及びこれに準用される第五九七条一項等の解釈適用を誤った違法がある。右民法の条項を受け、借主の賃貸借契約終了時の借用物返還義務の内容として原状回復義務が課せられ、本件においては、この原状回復義務の内容として、「乙(借主)が本物件に設置した造作その他の設備及び乙所有の物件を自己の費用をもって収去し、乙の希望により甲が設置した甲(貸主)所有の物件についても、甲の要求がある時は自己の費用をもってこれを取り外す」べき等の義務が課せられているのである。
(二) ここにおいて、「造作」の例を見れば「廊下のドアの仕切り、台所の瓦斯設備(瓦斯メートル器、配湯器及び配管)、配電設備(電気メートル器)、窓の金網及び網戸、水洗便所(腰掛式)及びシャワー設備、応接室(洋間一二畳)及び六畳和室の瓦斯配管設置及び窓の金網戸……がいわゆる造作に該当する」とされるのである(東京高裁昭和三一年三月二二日判決、昭和三〇年(ネ)第一七八三号、下級民集七巻三号七二一頁参照)。
本件においては、スタジオ用建物の特殊仕様の造作、設備が、ことごとく(有)ケービックのスタジオ用途の特殊建物として、借主の希望により設置されたものであり、これら撤去された造作施設の撤去費は、原判決の判断によっても原状回復義務の範囲に含まれるとされるべきであった。例えば①第一スタジオ、第二スタジオの隔壁にあったホリゾンの撤去及びこれに不可避の壁面の撤去及び通常の壁面の回復、②第一、第二スタジオの鉄板製の窓の撤去とりかえ、③第二スタジオ出入口ドアの特殊スチール製ドアと間仕切りの撤去等々、従前上告人が主張した工事項目の中でも、借主の求めによって設置した造作、設備、施設の撤去に直接係わる工事項目も多数含まれるのである(被告第五準備書面二参照)。
然るに原判決は、本件改築工事費の中に、明らかに借主の指示要求にもとづき設置した造作その他の設備の撤去の事項が含まれているにもかかわらず、これが全く含まれないものとしたが、この判断は、借主の原状回復義務を求める民法第六一六条及びこれに準用される第五九七条一項等の解釈並びに適用を誤った違法があり、且右判断は経験則、論理法則にもとづいた証拠の採否、事実認定をすべきとする要請に違反するものであり、民事訴訟法第三九四条又は同法一八五条の違背があるものといわざるを得ない。
(三) 加えて、一審は、民法第九五条の適用を認めた結果、敷金から控除される損害項目について、その個別内容に関する判断を必要とせず、判示の結論を出し得たことと対比すれば、原審は、事実審口頭弁論終結時において、一審の右判断を覆す心証に至っていた以上、少なくとも上告人主張の、本件建物改築費に関する損害主張に関して、これが、原状回復義務の範囲内にも含まれるものとして主張するか否かの点につき、上告人に対し釈明権が行使されて然るべきであり、且この釈明がなされれば、上告人は債務不履行全般で主張する損害項目と重畳して原状回復義務の範囲にも含まれるとする損害項目とその額を直ちに明らかにすることは容易であった。にもかかわらず、原審はわずか四回の口頭弁論期日を経て、極めて「簡易」に結審した上、原状回復義務に含まれる損害項目と債務不履行の効果たる一般の損害賠償とを峻別することなく判断をしたが、原判決の右判断には審理不尽及び判決への影響を与える重大な手続違反というべき釈明権不行使の違法がある(民事訴訟法第一二七条)。
三 二階サロン部分の立替内装工事費用に関する原判決の判断について
上告人は、本件建物二階サロン部分について、当初、(有)ケービックの本件建物賃貸借契約の対象に含め、同社が訴外(株)シンタニデザイン(以下単に(株)シンタニデザインという)との間で、内装の工事請負契約を締結したものである。従って当初、本件質権設定承諾の意思表示時に存在した本件建物賃貸借契約には、右二階サロン部分が含まれており、本件スタジオオープン時である昭和五九年一二月五日ころにはほぼ内装工事が完成しており、(有)ケービックがこの請負工事代金(当初の契約額八六〇万円及び追加工事費額を含め総額一〇、三六三、三〇〇円であったものを、(有)ケービックと(株)シンタニデザインとの合意で九〇〇万円に減額)について、(有)ケービックが支払義務を有していたのである。もともと、(有)ケービックが、二階サロン部分を含め本件賃貸借契約を締結していたものを、この締結後、二階サロン部分を含む敷金の一部の交付を遅滞し、やむなく当該部分については後日、本件賃貸借契約から分離、除外することとしたが、少なくとも右除外前に、既に(有)ケービックにサロン内装工事費額の支払義務が発生しており、この履行遅滞にいたっていた。然るに(株)シンタニデザインに内装工事費の支払いが不可欠であった為、上告人が立替え支払いを余儀なくされたものであった。このため、現に上告人が立替え支弁をした九〇〇万円が、当初の本件賃貸借契約に関して上告人が被った損害というべきであり、本件賃貸借契約条項第一二条三項に「本契約が終了し、乙が本物件を完全に明渡し、且甲に対する一切の債務を完済した後に甲は敷金の全額を乙に返還する」とする約旨からしても、右九〇〇万円の立替金相当の損害金も、本件賃貸借契約に帰因して、(有)ケービックの債務不履行(サロン部分の賃貸借契約を履行しなかった)にもとづく損害賠償義務として発生していたものというべきで、これは民法四一六条一項の通常損害に該当するものである。従って二階サロン部分の立替内装工事費を、債務不履行の損害として敷金から控除すべきであるにもかかわらず、これを排斥した原判決には、民法第四一六条一項の解釈並びに適用を誤った違法があり、又これが判決の結論に影響を及ぼすことも明らかである(民事訴訟法第三九四条)。
第三 本件債権質の要物性と質権の効力について
一 本件質権設定契約の対象は、敷金返還請求権という、将来一定の条件が成就した場合に初めて具体的に発生する債権である。もとより右債権をも債権質の客体とすることは可能ではあるが、元来敷金交付契約も要物性を要求され、現金又は現金の授受と同視すべき経済上の利益が与えられることが必要であること、及び質権設定契約も要物性を要求され、本件質権はいわば二重に要物性を具備すべきものである。敷金交付契約の要物性の具備は敷金の交付である。更に債権質における要物性は、債権証書のある場合はその交付を求められることに加え、対象たる債権が敷金返還請求権である場合、敷金交付にかかる領収書の交付等も要件と解されるべきである。上告人は、一、二審を通じ、本件質権の効力の及ぶ範囲は、第一次的には被上告人(原告)が要物性を満した二、〇〇〇万円の限度において認められるべきことを主張するものである(被告第七準備書面、第一の二の2、同書面第二の一の1及び3等)。
本件において、被上告人に質権設定承諾依頼書が差し入れられた段階で、要物性を具備した敷金交付契約は二、〇〇〇万円の限度にすぎなかったものであり、当時の質権設定に係わる当事者の意思は、少なくとも対象たる敷金額については現実に交付されあるいは交付と同等の経済的価値があると判断できる二、〇〇〇万円にすぎないことを了知し合っていたものである。なお、本件賃貸借契約において、その後昭和五九年一二月六日にいたってようやく金一、〇〇〇万円の敷金の入金を受けたが、これは全く別個の敷金交付契約にもとづくものであった。
二 ところで、一審判決は、上告人の質権設定の承諾の意思表示に要素の錯誤があると判断をしたことから、上告人の主張した、一次的には本件質権の効力が及ぶのは被上告人が要物性を具備した二、〇〇〇万円の限度にすぎないとする主張を判断する必要がなかった。
然るに、原判決は、右の要素の錯誤の主張を排斥し、加えて敷金から控除されるべき上告人の損害を、本件建物明渡退去までの賃料相当損害金一、八〇九万円にとどめ、その余の損害項目の控除を全て排斥した結果、被上告人の質権が、効力を有するのは二、〇〇〇万円の限度か、あるいは三、〇〇〇万円の敷金全体に及ぶのかの点に関する判断は極めて大きな結果の差異をもたらすこととなった。つまり、二、〇〇〇万円を限度とすれば、仮に控除すべき損害を一、八〇九万円とすれば残額が一九一万円にすぎないものが、三、〇〇〇万円を対象とすれば、原判決の結論の如く残額が一、一九一万円となるからである。にもかかわらず、原判決は、上告人の質権の効力の及ぶ敷金額は二、〇〇〇万円とする主張について、これを退けるについても全く何らの理由を示していない。理由が欠落しているのであり、この点において、原判決には理由不備の違法があるというべきである(民事訴訟法第三九五条一項六号)。更に右の主張に関し、一、二審を通じ、被上告人は何ら反論もしていないという審理経過の中で、当事者双方の主張の整理もされず、右争点につき十分審理が尽くされたとはとうてい言えず、審理不尽の違法もあるというべきである。
第四 本件敷金返還請求権の具体的発生時期と遅延損害金の発生時期に関する原判決の判断の法令違背、理由不備について
原判決は、その主文一項において「被控訴人(上告人)は、控訴人(被上告人)に対し、金一、一九一万円及びこれに対する昭和六〇年六月一一日から完済まで年六分の割合による金員を支払え」と判示した。右遅延損害金の発生の始期とされた昭和六〇年六月一一日は、その判決理由によれば、「本件質権の被担保債権の弁済期の翌日」とされるものである。
ところが、原判決は、前記最高裁判所昭和四八年二月二日判決を引用しつつ、家屋明渡がされた時、それまでに生じた右の一切の被担保債権を控除し、なお残額があることを条件とし、その残額について敷金返還請求権が発生することを前提に、「ケービックが本件建物を明け渡した昭和六二年四月末日、本件敷金の返還請求権が具体的な権利として発生し、原告はその質権者として被告に対し、直接その返還を請求することができることとなった」と明確に判示しているのである。つまり原判決の判断は、未だ具体的に敷金について返還義務が発生していないにもかかわらず、その義務が発生した昭和六二年四月末日から遡ること一年一一ケ月以上も以前である昭和六〇年六月一一日から、上告人の敷金返還義務に履行遅滞があったものとして遅延損害金を支払うべきと結論づけているのである。あり得べからざる論理であり、判決の右に関する理由自体に矛盾があるというべきで、明らかに判決理由中に齟齬があり、又は理由不備の違法があることが明らかである(民事訴訟法第三九五条一項六号)。加えて右主文に示された遅延損害金発生の始期の判断は、前記敷金返還請求権の具体的な発生に関する最高裁判所の判断に明確に反し、履行遅滞の要件を定めた民法第四一二条等にも反する法令違背の違法を有するものであり、且判決の結論に影響を及ぼすことも明らかであって、この点においても原判決は破棄を免れない。
第五 以上の次第であり、原判決はいかように見ても、破棄を免れないものである。